僕はたまに野方にあるコヨーテ書店という古本屋で店番をしているのですが基本的にお客さんは来ません。
そんな時は本屋の店番らしく店の本を手当たり次第に読むのですが、この本を見つけてしまいました。
この本を初めて読んだのは確か大学1年の秋だったと思います。その時から僕は既にこの入門書の著書である永井均氏の哲学に傾倒、というかもはやそれ以外の事物は何の存在価値も無いというくらい狂信的にはまっていました。
一番最初に読んだ永井均氏の著書は「翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない 」というちょっと知的に早熟な中学生向けの易しい言葉で書かれた本でした。
易しい文体で書かれていますが哲学の問題そのものが易しくなった訳ではなく当時の僕にとっても相当難解だったので、一度読み通しただけでそこで扱われている全ての問題が理解出来た訳ではありません。寧ろ抽象度が高い問題についてほとんど何を言っているのかが分かりませんでした。
問題意識の共有
しかし、確実に言えたのは「根本の問題意識が一致している」ということです。僕自身も永井氏と根本的には同じような問題を抱え疑問を持っていました。なので頭で理解し言語化することが出来なくとも、読みながら自分の中でくすぶっていた問題がゆっくりと氷解していくような感覚になりました。
例えば「翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない 」で扱われている問題は
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いまが夢じゃないって証拠は?
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心があるって、どういうこと?
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たくさんの人がいる中で、ある一人だけが『ぼく』なのはなぜ?
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死ぬって、どういうこと?
といったとても素朴な疑問ばかりです。つまり問題自体は易しい文体で書くことが出来るんです。というのもこういう疑問を持つのは概して子どもだけなのですから。大人はこんなことを考えてません。単純に大人は忙しいですからね。今夢見ているかどうかよりもとにかく寝る時間が取れるってことの方が大切です。
上の問題はとても興味深いし、多くの人にもっと知ってもらいたいと思うのでまた別の機会に取っておきます。
永井哲学の出発点
永井均氏の哲学の出発点は一言でいえば「どうして<私>は他の人たち(他の私)と違ったあり方をしているのか」という一点にまとめることが出来ると僕は思っており、色々な著作を読む限りこれは殆ど疑い無いはずです。上の問題でいう3つ目です。
つまり永井哲学は自分という存在の異質性や比類なさを唯一の基盤にして展開していきます。
これはデカルトがあらゆる事物を疑うことに(方法的懐疑)によって「我思うゆえに我あり」という真理に達したのと逆だと理解すると一見分かりやすいですが、実はそれほど単純な問題ではありません。
なぜなら永井哲学における「私」はデカルトが言う「我」では決してありえないからです。
別に「私」「我」と言う二つの言葉を使っているからこの二つがイコールで結べないと言っているのではなく、仮に同じ「私」という言葉を使っていたとしても同じ対象を指し得ないというところに問題の本質があるのです。
もっと言えばデカルトにおける「我」はこの世界に無数に存在する一般的自我(自己意識)を指していますが、永井哲学における「私」を何も対象を指すことが出来ません。
それは寧ろ無数の一般的自我を存在させている世界そのものなのです。
でもこの事を他の人に伝える事は出来ません。何故なら一旦言葉にして語ってしまった瞬間、この特別な「私」は誰にでも適応可能な一般的自我、つまりはデカルトの「我」に引き落とされてしまうからです。
その意味で永井哲学は誰にも(驚くことに我々がこのように語っている永井氏本人にとっても)理解出来てはいけないのです。誰が永井哲学について「ああ、そういうことか。よく分かった」と言った途端にこの哲学は何の意味も持たなくなります。
真に純粋な独我論は構造的にも論理的にも誰にも理解出来てはならないようになっているのです。
僕個人の問題
僕が気になっている問題です。
- 死とは何か?生とは何か?
- 良いことと悪いことはどう区別される?
- 倫理、道徳はどこから来るのか?
- 何故人を殺してはいけないのか?
- 愛とは何か?
- 正しさとは何か?何が基準なのか?
- どうして私は私であるのか?
- 私の存在の比類なさをどう効果的に伝えられるか?
- 私以外の人間は意識があるのか?単に意識があるように振舞っているだけでないのか?
- 本当はこの世界に自分一人しか存在していない事を相手を怒らせずに伝えるにはどうしたらいいか?
- 本当は今夢を見ているんじゃないか?
- 実際はこの世界は存在してなくてバーチャルリアルティという可能性はありえるか?
- いつかこの世界を作った神様が僕の肩を叩いて「俺がお前を作った」と言う可能性はあるのか?
僕と同じような問題意識を持ったことのある人がいたら嬉しいです。
結局のところ哲学にとっては問いに答えを与えることなんかよりも、同じ問題を共有する仲間がいるという事を知ることの方が大切なんだと永井氏も言っていますが本当にその通りだと思います。
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