前回は走水神社で取材したミステリーの真実を観音崎京急ホテルのフロントで報告したところで終わりました。
【ムー×横須賀】歴史謎解きイベント前編〜ヤマトタケル夫妻のミステリー〜
二つ目のミステリーは三浦按針ことウィリアムアダムス(William Adams)についてです。
三浦按針の隠された姿とは
三浦按針は江戸時代初期に徳川家康に仕えたイギリス人。家康から逸見(横須賀の一部)を領地として与えらえた。
手がかり㊀と㊁
これも実はサイゼリヤで解いてしまっていました。この謎を解く為にはまずあみだくじ風の暗号を解き、QRコードを読み込む必要があります。
手がかり㊀の謎を解き、QRコードを読み込むと
謎の画面が現れます。説明文を読んだのち目を瞑ってからスマホを振ると
一瞬のうちに「Kannonsaki」という文字が「Xamonschi」に変わってしまいました。
ここで私の興奮は最高潮に達しました。なんということでしょう。これを超常現象と言わずになんと言いましょうか。スマホのシェイク機能とでも言いましょうか。
さらに新たな手がかりが提示されます。
2つを1つにし読め。赤→橙→青→緑→紫
提示された手がかりを元に二つ目の謎も解きました。真実を語る手紙の在りかは「灯台入口前白い看板」にあります。この「灯台」とはもちろん観音崎灯台のことです。
そのまま観音崎へ向かいます。
観音崎灯台
ゴールデンウィーク中ということもあり、多くの人で賑わっています。みんなバーベキューをしているのでそこら中から美味しそうな匂いが漂ってきます。ちなみに私はこの時朝飯抜きでしたので怒りがふつふつと湧いてきました。
酒臭い男がたくさんいました。
バーベキューに現を抜かす俗人たちを横目に石畳を進んでいきます。
約600メートル進みます。
誰もいない海岸でイチャつく若者もいました。ふしだらでけしからん。
観音崎灯台に到着しました。入り口からだいたい600メートルなのでまあまあな距離です。
ここを登っていきます。
地層のむき出し。
ひたすら登ります。ひたすら登ります。
ようやくたどり着きました。横須賀にはもうかれこれ18年くらい住んでいますこれが、初めてきました。
ちなみに観音崎灯台は明治に出来た日本で初めての西洋式灯台だそうです。地震によって2度改築されたので今あるのは三代目なんだとか。これが手がかりにあった「白い看板」のようです。
手がかりにあった通り看板の下にはミステリーの真実がありました。
同胞へ
ガリバー旅行記の作者、ジョナサン・スウィフトが按針の書いた書簡を持っていたらしい・・・!?
ガリバー旅行記では全て架空の国が登場するにも関わらずに、日本だけはしっかりと名前が記載されている。
さらに調査したkannonzakiの地名の真実・・・。
この二人には知られていない関係がありそうだ。
三浦按針の隠された姿、それは「ガリバー旅行記」の主人公なのかも知れない・・・!
なんと三浦按針はあの「ガリバー旅行記」の主人公だったのかも知れないというのです。なんてミステリアス。
ミステリーの真実を掴んだので早速報告に行きました。
観音崎公園パークセンター
観音崎公園パークセンターは灯台の近くにあるのですが、ちょっと分かりづらい場所にありました。一昨年オープンしたそうです。確かにここはずっと工事中だったような気がする。
明治31年に旧日本陸軍が砲台の火薬庫として造ったもので、建物の重量を主に木骨で支え、壁をれんが積みとした「木骨れんが造」とよばれる、日本と西洋の技術が融合した構造で造られています。
なお、この建物の構造形式は、世界遺産に登録された「富岡製糸場」と同じものであり、幕末から明治時代の建築技術を伝える国内でも数少ない貴重な建物です。(観音崎公園パークセンターについて)
富岡製糸場と同じ構造で造られているんだそう(イギリス積み)。
ちなみに明治初期にはフランス人技師が多く日本にやってきて日本の近代化に大きな影響を及ぼしています。ヴェルニー公園も観音崎灯台もフランソワ・レオンス・ヴェルニーというフランス人技師によって造られたものです。 裏にもう一つ建物がありました。こっちはまだ改修中らしいです。
他にも報告書を提出している人がいました。
ムーの謎解きイベント台紙がありました。
ここでゲットした認定証です。
後編に続きます。
【ムー×横須賀】歴史謎解きイベント後編〜ペリー・黒船来航にまつわるミステリー〜
※参考資料
ガリバー観音崎上陸に関する記事です。
ウイリアム・アダムズが乗っていてリーフデ号について。
船名の「Liefde」はオランダ語で「愛」を意味する単語。元々はルネサンス期の人文主義者として知られるエラスムスの名を冠した「Erasmus(エラスムス号)」という船名であった。しかしこの名称が付けられた経緯、また変更された経緯については不明である。
2年前に本国オランダのロッテルダムを出航。初めは5隻の船団であったが、マゼラン海峡通過後の太平洋で、悪天候などにより離散した。乗組員は110人ほどいたが、生存者は僅かに24名。生存者の中にも重傷者が多く、翌日に3人が死亡したという。生存者の中には江戸幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムス(三浦按針)も含まれていた。日本に到着した初めてのオランダ船。また、アダムスは、日本に初めて来たイギリス人であった。(Wikpedia)
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