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「僕」の存在の比類なさ2

前回1を書いた時からだいぶ時間が経ってしまったので前回書いた内容は殆ど覚えていません。というかこういうちょっと哲学的なことを考えるといつだって時間が経てば忘れてしまいます。垂れ流し状態です。垂れ流しの哲学です。哲学垂れ流しの術ともいえるでしょう。

今さっき少しだけ読み返してみたのですが、なんて読みにくい文章なんでしょう。一文が長すぎるし、第一論理が飛躍しすぎて自分で読んでいてもある程度頭の中でその間にあるものを補完しながらでないと理解出来ません。内容の難易度如何に関わらずに、読む人に分かりやすく書くっていうのはとても難しい能力なんですね。まあこのカテゴリーに関して言えば、ブログを訪れた人全員にに向けて書いているというよりは、ほんの一部の人に興味を持って欲しいという思いだけで書いているので気を遣って書くつもりもありませんが(どうしても一文が長くなってしまうのはもう治りそうもありません)。

どうやら前回はロボットについてなんやかを書いていたようなのでその続きから。かなりめちゃくちゃなことを書きます。

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ドラえもん

日本人なら誰でも知っているドラえもんですが、彼は正真正銘のロボットです。自身のイメージソングである「僕ドラえもん」の歌詞にもそのことをはっきりと言っています。

あたまテカテカ さえてピカピカ それがどうした ぼくドラえもん

みらいのせかいの ネコがたロボット

ドラえもんは自分が「ドラえもん」であり、更に「ネコ型ロボット」であると自覚しています。ここからドラえもんは自分は自分であるという自意識を持った存在であることが分かります。

デカルト

この時点でドラえもんはデカルトを超えています。何故なら、デカルトが方法的懐疑の末にようやく辿り着いた「我思う、故に我あり」という真理を、ドラえもんは外側の世界に関する方法的懐疑を経る事なく、あくまで極めて内的な先天的自意識とでも言えるようなものにだけを支えに辿りついているからです。辿り着くという言い方は正しくありません。何故ならドラえもんはそこから出発しているからです。デカルトのように全てを疑った末に自分の存在を確立したのではなく、「自分は存在している」という主張から出発しているのです。つまりデカルトの結論はドラえもんにとって自明な前提でしかないのです。

デカルトは「我思う、故に我あり」という真理によって、それ以前のキリスト教的中世哲学をぶっこわし、近代自然科学の発展に寄与したことは疑いありません。凄く簡単に言えば、デカルトによってあらゆるものが一般化されてしまったというわけです。つまりここで起こったことAの原因がBだとすると、あそこで起こったことAの原因もBだ、みたいな感じで。

この一般化というキーワードは僕の存在の比類なさを語る上ではもっとも重要だと言っても過言ではありません。そして今気付いたのですが、僕は「存在」と「意識の存在」を混合して書いていました。僕がここで言う「存在」とは「物理的なものとしての存在」というよりは「意識を持った存在」と解釈して下さい。

次回に続く

 

 

 

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