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「僕」の存在の比類なさ3

こんばんは。今、駄民具のダミラの前で書いてます。外だから手がかじかんで上手くキーボードが打てません。死後硬直ってこんな感じなのかなって思いながら打ってます。

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前回のおさらい

前回は、ドラえもんは自分が自分であることを分かっている点でデカルトを超えている、ということを書きました。そしてデカルトの功績は一般化と言う概念をあらゆるものの考え方の裏に刷り込ませ、近代自然科学の礎を築いたこと、というようなことも書きました。

今回は、この一般化というキーワードと「僕」の存在の比類なさがどのような関わっているのか、というのを可能な限り書きたいと思います。全く出鱈目を書いているかも知れませんが、その時は他の記事を読んでいて暇つぶしして下さい。

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「我思う、故に我あり」

デカルトの有名な言葉「我思う、故に我あり」についてのおさらいです。これは簡単に言ってしまえばこんな感じです。

この世界は欺瞞に満ちている。目の前に存在している机や椅子やパソコンや親友や妻や猫やオラウータンやゴジラやお金や….、とにかくすべてのものは本当にそこに存在しているのかは疑わしい。だがしかし!。それらを意識しているこの私の意識そのものは確実に存在している(存在していなければならないのだ)!。

こんな感じだと思います。最後の()は僕が補足した言葉ですが、それ以外はシンプルで分かりやすいですね。きっと「我思う、故に我あり」という有名な言葉を聞いたことがある人は全員理解出来ると思います。

全員理解出来る?えっ?それってなんかちょっとおかしくない?」と思ったそこのあなた。あなたはきっと僕のように道徳の授業中に変なことを言ってクラスメイトから白い目で見られた経験があることでしょう。それ以外のあなた達は白い目で僕を見ていたことを謝って下さい。

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全員が理解出来る「我思う、故に我あり」?

デカルトの「我思う、故に我あり」の前半部分をおさらいしてみましょう。

この世界は欺瞞に満ちている。目の前に存在している机や椅子やパソコンや親友や妻や猫やオラウータンやゴジラやお金や….、とにかくすべてのものは本当にそこに存在しているのかは疑わしい

つまりここでは自分以外の全ては存在しているのかが疑わしいと言っているわけです。ここにはもちろん自分以外の人(他人)や、その人の意識さえも含まれます。そして後半部分で

だがしかし!。それらを意識しているこの私の意識そのものは確実に存在している(存在していなければならないのだ)!。

と言っています。外の世界が存在してるかは不確実だけれど、それを思考している自分自身は確実に存在しているということです。

デカルトになったふりをして自分自身を例に考えてみて下さい。この世の全ては疑わしいけど、それを考えている自分自身は確実に存在している。なるほど、納得。と結構すんなりと腑に落ちるのではないでしょうか。

でもちょっと考えてみて下さい。他の人が全く同じ論証をしたらどうなるんでしょうか?例えば学校で道徳の授業を受けていると想像して下さい。先生がデカルトの論証を生徒たち全員に自分自身に置き換えて考えるように言いました。すると生徒たちは上で書いたように外の世界の全てを疑った後、最後に残った自分自身は確実に存在していることに気付く……。でも、これってちょっとおかしなことになると思いませんか?

例えば教室の中には生徒Aから生徒Zまでがいると考えます。生徒Aは外の世界の全てを疑うわけだから生徒BからZまでは本当は存在していないのではないかと疑った後に、それを考えている自分自身は確実に存在しているという結論に達します。

しかし、これは生徒Bにだって生徒Cにだって同じことが言えてしまいます。Bは自分以外の全てを疑い、Cも自分以外の全てを疑います。つまり彼らにとっては(自分自身は確実に存在しているという結論に達した)Aの存在だって疑う余地があるんです。これでは本当は誰が存在しているのかが分かりません。

つまり、「我思う、故に我あり」という究極の結論を一般化すると、誰が存在しているか分からない(全員の存在が疑わしい)という結論が返ってくるのです。

4に続きます。

※補足

デカルトの「我思う、故に我あり」についてインターネットで調べていたらこんな解釈がありました。

デカルトは全てを疑った最後に残ったそれを考えている自分自身に気付いた(意識した)のだ。だから考えていることに気が付いた意識があったのだと。つまり最後に残ったのはこの純粋意識であり、考えているデカルト自身ではないと。

なかなか説得力のある議論だと思います。ただ、僕としては2点だけ異論があります。

  1. 全てを疑い最後に残ったそれを考えている自分自身とそのこと(全てを疑い最後に残ったそれを考えている自分自身)に気付いた純粋意識を区別することに意味があるのかどうか(ナンセンスではないのか)
  2. 純粋意識は果たして本当に一番最後の気付きとして存在しているのか。つまり、純粋意識の背後にメタ純粋意識を想定することは論理的に可能ではないのか。そしてその場合にはその想定が無限に続いてしまうので、純粋意識という概念を想定すること自体がナンセンスではないのか

1も2も異論の中身は同じです。要は純粋意識を意識しているのか誰か、という問題。純粋意識は純粋な意識なんだから誰かが意識するということは矛盾です。つまりは…..とここまで色々批判を書きましたが、もしかしたら純粋意識を意識することは可能ではないかという気がしてきました。なるほど確かに純粋意識が背後にあるという考えには一定の正しさがある。

だけどやっぱりそれは、デカルトという他人について議論をしている時だけです。自分自身について考える場合には純粋意識なんて存在しようがない。何故なら常にそれを意識している自分が否応なしに存在しているからです。

「僕」の哲学をする時は「他人」の哲学をする時と分けて考えなくてはいけません。しかし、こう書くということ自体が矛盾であり、その本当の意味が言語によって伝わるということは論理的にあり得ません。論理的にあり得ないというのは理解出来ない、そもそも意味を持たないという意味です(1+1が3のように)。このことを理解した人を僕はこの世の中に数人しか知りませんが(知らなくたって全然いいし、知らない方が日常生活を円滑に送ることが出来るでしょう)。

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