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【仏教・哲学】「老師と少年」南直哉 <ぼく>と「ぼく」とは

哲学探究

基本的は私は電車の中でしか本を読まないので電車に乗る機会が少なくなれば読書量も少なくなる。

今年の夏は特に異常な暑さということもありずっと家に籠もりきりだったので、本は2、3冊しか読めていない。

そんな中、以前から興味を持ち、ぜひ近いうちに著作を読みたい、とずっと前から思っていた南直哉(じきさい)さんの本を近所の図書館で見つけた。「老師と少年」というタイトルのとても短い小説である。

南さんのことを知ったのは今から半年前くらいだった。評論家の宮崎哲弥氏が出ている「ザ・ボイス」というラジオ番組にゲスト出演したのを聴いたのである。

2018/3/6(火)ザ・ボイス 宮崎哲弥×南直哉 特集『仏教について』「森友学園の文書改ざん疑惑 財務省は『捜査対象のため確認できない』」など

もちろんこの時は南さんのことは何も知らなかったし、「どうせただの禅ボウズだ」くらいにしか思っておらず何も期待していなかったのだが、話を聴いているうちに涙が出そうになった。

それは別に南さんのお言葉が慈愛に満ち満ちていて感動したわけではない。というか禅僧だからとかは何も関係がない。単に、南さんが私と同じような問いを持ち続けなければいけなかった人だったからである。

私はこれまで生きてきてこの問いを大人になるまで持ち続けている人を数人しか知らない。だから本当に分かり合える(しかしながら問いの本質上、決して分かり合うことはない)同志を見つけた心地がした。

ではその問いとは一体なんなのか。

その問いは端的に言ってしまえば「生と死」についてであり、別の言い方をすれば「自分という存在の謎」についてである。

これは「死んだ後はどこに行くか」とか「人はどうして生まれて来るのか」とかそんな一般的な甘っちょろい問題ではない。そもそも一般化出来るかどうかも危ういような、ある種無意味で危険にもなりうる問いである。

ここから先は読んでも分かる人と全く分からない人に別れる。別に頭の良し悪しは関係無い。

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「老師と少年」概要

「老師と少年」は老師と少年の九夜に渡る問答を中心に描かれている。

他人が当たり前だと考えていることがわからない少年は毎晩老師の元に通い詰め、世界に対する素朴な疑問や、軽々しく「生と死」についての真理を語る大人に対する不信感を老師にぶつける。

少年の疑問

少年の疑問は多岐に渡る。「死ぬとは何か?自分は死んだらどうなってしまうのか?」「生は善いことなのか?死は悪いことなのか?それなら何故人間は自殺出来るように作られたのか?」「<僕>とはなんなのか?本当に僕は<僕>なのか?」etc….

これらの疑問はほとんどの子どもが持つようだが、大人は真正面からこの疑問に答えようとはしない。何故なら答えが無いからである。答えが無い問いに答えている暇は大人には無いのだ。

そうして子ども頃に抱いたこうした疑問は全て忘れさられてしまう。しかし、これは正しいことだ。何故なら、大人になるとはこうした無意味な疑問を忘れることに他ならないからである。

しかしながらこの少年や南さん自身や私のように、この問いからいつまでも離れられない<大人>が一定数存在する。小説の中ではこうした大人な「不幸」である、と書かれている。

これは確かに一面の真理ではある。大人になっても無意味なこと、答えが無い問いにいつまでも拘り続けないといけない人間にとっては普通の社会生活を営むことは困難であり、苦痛でもありうる。

これは一種の病気と言いかえてもいいが、処方箋が無いわけでは無い。私にとっては哲学がこの病気に対する処方箋だった。そして南さんにとっては仏教(思想・哲学)が処方箋になったようである。

老師の答え

少年の疑問は多岐に渡るが、どの疑問もある一つの根本的な問いから発せられたものであることを老師は見抜いている。

それは<ぼく>という謎である。

<ぼく>とは、この世界が唯一そこから開かれるような視点のことである。つまり誰にでも当てはまる自己意識のことを指すのでもなければ、超越論的自我を指すわけでも無い。

この世界の中の特異点である<ぼく>は、誰もが自分のことを指し示す時に用いる「ぼく」とは存在論的に異なるのだ。

でも、実はそんな特異点はありえない。何故ならいくら私が世界における自分の特異点を<私>と表現したところで、それは全て誰にでも当てはまる一般的な「私(他人)」に読み替えられてしまうからだ。

だがこの読み替えは正しいのだ。人は他人との関わり合いの中で「私」を形作ってゆく。そうでなくてはならないのだ。

小説の中でも老師が子どもの頃に<自分>が「自分」となったエピソードが語られる。

しかし、少年は未だに<ぼく>であり「ぼく」になることが出来ない。つまり「他者」と<ぼく>を同列に扱うことが出来ない。少年の苦しみはまさにここにある。

そんな少年に対し、老師はこう答える。

「断念せよ。「自分」という器を作れ」

ここの「自分」が<自分>ではないことが何よりも重要である。<ぼく>であることを断念し、「ぼく」という器を作れ、とは<自分>が無数の他人の中の一人であることを認めること、だ。

この世界に<ぼく>が存在している謎、その絶対に答えが出ない問いを断念し、「他人(のぼく)」との関係性の中で新たな「ぼく」を作りあげること、これが老師の答えである。

この小説の本当の読者は

小説の感想として茂木健一郎氏、みうらじゅん氏、土屋アンナ氏が巻末に短い文章を寄せている。「誰もが読むべき」と言わないまでも全員がこの小説を絶賛している。

だけど私はそうは思わない。この小説の本当の読者はおそらく人口の1パーセントもいない。

本当の読者とは本当にこの小説を必要としている人(患者)のことで、少なくとも感想文を寄せた3人はこの小説の読者ではないかなぁ(みうらじゅんはもしかしたら本当の読者かもしれないが)。

もちろん誰が読んだっていいし、そこから何かを感じ取って生きる糧に出来たら素晴らしいことである。

特に老師の最後の言葉

「生きる意味より死なない工夫だ」

この言葉に勇気をもらう人間は少なからずいるだろう。「生きる意味」なんていう答えが出ない問いに苦しむよりは、(現に今生きてしまっているのだから)死なない工夫を考える方が良い、と言う現実的な教えである。

私はここで「南さんはやっぱり仏教者だなぁ」と感じてしまう。哲学者はこんな優しい言葉で他人を勇気付けたりはしない。

しかしこの小説の本当に読者とは(もちろんそうである必要はサラサラない)少年と全く同じ疑問を持ち続け、悩み苦しみ続けている人であると私は思う。

つまり、<自分>から「自分」への移行が上手くいかず、「他人」との関係性の中で「自分」を形作ることが出来ていない人(そしてそのことに悩み過ぎて死を意識している人)、この人にとってはこの小説が何よりの救い(処方箋)となるだろう。

そういう人にとってはこの問答こそが心に響くに違いない。

「この世にたった一つしか無いものは、だから大切なものなのか、だから無意味はものなのか、どちらだと思う?」と。

私が答えられないでいたら、老師は一言、

「本当に一つなら無意味だね」

と言いました。そして、

でも、その一つが自分だと無意味とは思えない。だから人は苦しいのだ」

と言いました。

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