夢と死について考える

2018年12月13日

たまに「眠るように死ぬ」という言葉を目にするが、これはとても興味深い。もちろんここでの意味は「(眠るように)安らかに死ぬ」ということだとは思うのだけど、死ぬことがあたかも眠ることの究極的な形態であるように考えられているようだ。

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私は眠っている間によく夢を見る。多くはほとんど覚えてはいないが、かなり脈絡のない奇想天外なストーリーの夢が多い。

だが当然見ている最中に「自分は今本当は寝ていて夢を見ているんだ」などと悟ったりはしない。

この「しなさ」は経験的にそういうことをしたことが無いという意味ではなく、原理的にそんなことは不可能だという「しなさ」だ。

夢という言葉の本質は「その夢を見ている最中は絶対に目覚めていない。夢を見ていると気づくのは常に目覚めた後だ」ということだ。

だから夢の中で「自分は本当は夢を見ている」と気付くことはありえない。

もし夢の中で「自分は夢を見ているのだ」と気付いたとしたら、単にそういう夢を見ているということに過ぎない。夢を見ている最中に夢の世界の外に出ることは絶対にありえず、外に出たと思ってもそういう夢を見ている、というだけだ。

「自分は今夢を見ていたのだ」と気付くのは常に目が覚めた後である。夢を見るためにはそうでなければいけないのだ。

死ぬことは外形的には夢を見ることに似ている点がある。それはどちらも無意識という点だ。

夢を見ている時に我々の意識は無いし、自分が現実世界で生きているかどうかなんてことは考えない(そういうことを考えたとしても、それはそういうことを考えている夢を見ているに過ぎない)。

当然死んでしまえば意識は無い。

しかし夢と死には決定的な違いがある。それは、夢は目覚めた後に自分が夢を見ていたことに気付くことが可能だが、死んだ場合は自分が死んでいたことに気付くことは絶対に不可能だという点だ。

なぜなら、死ぬとは言い換えれば「絶対に目が覚めることが無い状態」の意味だからだ。夢から目覚めることはあっても、死から目覚めることはない。

夢は後から自分が夢を見ていたと気付くことができる。でも死は後から自分が死んでいたと気付くことはない。ということは、人は自分が死ぬことに決して気付くことはない(体験することはない)ということだから、「自分は絶対に死なない(死ぬのは常に他人だ)」という帰結が導き出されはしないだろうか。

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他者と自分

だがここでまた大きな壁にぶち当たる。「死ぬのは常に他者だ」とはいうけれど、そういう私だって他人から見れば無数の人間の中の一人の他者に過ぎない。

私は自分の死に気付くことは絶対にありえないが、他者には死体として認識されるだろう。つまり私は(他者から見れば)死ぬのである。

しかし、夢との対比で考えれば、私自身が自分の死を体験することは絶対にありえない。なぜなら死んでしまった私は二度と目覚めることはないからだ。

私は絶対に自分の死を体験することは出来ない。しかし他人には(私の死体として)私の死を認識することが出来てしまう。

他人も「自分」だ

だがしかし、ここが何よりも重要なのだが、他人もまた各々の「自分」を主張することが出来る。

これは当然のことだ。誰だって自分のことを言い表す時は「自分」という言葉を使うだろうし、彼らにとっても見れば彼らだって「自分」である。

ということはつまり、彼らだって自分の死を体験することが出来ない。

となると、この世界には死というものを誰もがそもそも自分で体験することが出来ない、ということにはならないか。

誰も自分では死を体験出来ないはずなのに、他人の死は(死体という形で)認識出来る。だがその他人は自分で死を体験したわけではないのだ。

ということはこの世界には死そのものなんて存在しないのかもしれない。あるのは(他人の)死体だけで、死を経験することなんて、そもそも原理的にありえないのかも知れない。

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関連書籍

この問題に興味が持てたらぜひこの本を読んでほしい。夢と死以外にも心の存在などとても興味深い問題を扱っている。

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