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加藤ミリガン
僕が面白いと思う芸人に加藤ミリガンというピン芸人がいます。彼は長身で(恐らく190センチ以上)、モヒカンで、黒いスーツに青いシャツという一度見たら忘れられない風貌をしているのですが、そのミリガンさんがかなり前にとても興味深いネタをやっていました。
ミリガンさんは舞台に立って二言三言面白いことを言って会場を沸かせた後、ポケットからメジャーを出してこう言いました。
「ひょっとしたら俺が目を逸らしている隙に目盛りが無くなってんじゃないの?」
僕はこれを聞いた時にミリガンさんの哲学的感度が常人の遥か上にあったことを知りました。
本人は全く気付いてはいないでしょうが(これは本人の哲学的感度の高さの証明でもあります)、これは実際にはとても難しい問題で我々の存在の本質そのものを問うているのと変わりありません(因みにネタは舞台の端に置かれたメジャーが油断して目盛りを消し去ったところをミリガンさんが文字通りタックルしてそれを目撃する、というような内容で、これ自体もとても面白かったです)。
存在の独立性
あるものやあることについて、それが存在しているか存在していないのか、仮に存在しているとしたらどうのようにその存在は成り立っているのか、ということに対しては幾つかの考え方があると思います。しかし代表的な考え方としては
- それは我々の知覚とは関わりのなく独立して存在している
- それは我々が知覚する限りにおいて存在している
- それは我々の意識の中にだけ存在している
というような考え方があると思います。ミリガンさんが知らず知らずの内に体当たりで行っていたことは、1と2の内どちらが正しいかということでした。もちろん実際の舞台ではメジャーの目盛りは消えることはなく常にそこにあるので、どちらが正しいかは決定することは出来ません。
でも、つまるところ2が正しい考え方のように思えます。何故なら我々には何かを知覚せずにその存在を確かめることなど論理的に出来ないからです。
逆に言えば、何かの存在を確かめる時は必ずそのものを知覚しなければならないからです。我々が目を逸らしている隙にもメジャーの目盛りがちゃんとそこにあるかどうかは、それを見(知覚し)ないことには確認の使用が無いからです。
つまり、あるものが我々の知覚とは独立して存在しているという考え方自体がナンセンスなアプローチなのです。
限りなく透明に近いブログ
上では存在の独立性を否定しましたが、このブログを書くにあたり僕は敢えてその存在の独立性に挑戦しようと思います。このブログは透明です。まだそちら側の誰にも知覚されていないという意味で存在していません。しかしインターネット上には存在しており、ここに僕という書き手が存在しています。つまりこちら側から見れば、ハッキリとした色を持った存在なのです。そしてこの相反する矛盾を孕んだ結果、こういうタイトルが生まれました。
というのは全て冗談で、ブログのタイトルは村上龍のあの有名な小説から拝借しました。このブログはまあ日記みたいなものだと思って下さい。最後まで読んでくれてありがとうございました。